浜名湖について

紀行文にみる浜名湖畔
 浜名湖は実に多くの詩歌に詠まれてきている。その作品を通じて勝景の奥行きの深さがしのばれる。また文学作品の舞台としても扱われて、紀行文の世界にもたびたび登場する。現在のように観光開発が進んでいなかった大正時代の浜名湖は、どのような状況だったのかをうかか恰好の資料としてあげられるのが、当時つづられた紀行文としてまず注目されるのが大町桂月の「春の浜名湖」である。  大町桂月は明治から大正時代に活躍した文筆家である。文章の美しさは有名で、晩年の紀行文は飄逸淡泊な人格がそのまま文章に現れている。その桂月は大正四年の暮れから正月に書けておく浜名湖の都筑(引佐郡三ヶ日町)の湖岸にあった湖月(現在の琴水)に滞在していた。


 「春の浜名湖」のなかで桂月はこう書いている。「月山その馬鹿っ風をさえぎり、都筑の浜は冬暖か也、南と東とは湖に面して、日の出を観るに宜しく、月を観るにも最も宜し、湖月館の名虚しからず」月山というのは琴水の北側にある高い山のことである。湖月という名称が琴水に改められたのは昭和初年であった。現在との琴水の前提に「布団から あたまだけ出す 初日かな」の一句を刻んだ碑がある。
 桂月が「春の浜名湖」を書いてからおよそ10年後の大正14年に機構化の田中貢太朗が「浜名湖紀行」をものし、当時の浜名湖岸の勝景をあますところなく紹介している。貢太郎は浜松から軽便で井伊谷まで行き、そこから奥山方向寺に詣で、気賀から汽船で館山寺に出ている。文中に「三岳山はかつて大町桂月扇が浜名湖畔に滞在しているときに登った山であった」などと書いているから、桂月の紀行文を十分踏まえてのたびであったことがわかる。
 館山寺から船で佐久米(引佐郡三ヶ日町)にあがった貢太郎は、万歳館という湖畔の宿に立ち寄っている。万歳館とあるのは万楽館の誤りであろう。佐久米から鷲津に向かったが、途中都筑から大崎を湖の上から眺めている。このあたりのことが「浜名湖紀行」には「船は佐久米から都筑に往った、湖岸は砂浜が松の並木であった。萩の青葉、三ヶ日の湖月館を松のあいだにみながら往った」と綴られている。船は鷲津につき、貢太郎は汽船会社の事務所に立ち寄り、社員の老人の案内で本興寺を尋ねている。以下同所から本興寺詣での部分を抄録しておく。大正の昔の風景が文章を通してしのばれる。
 省線の踏切を超えて畑の間を往く、常霊山という城門のような黒く塗った高い瓦葺きの山門があった。陽が出たり、かげったりしていた。その中に入ってゆくと、左の槙垣のうちに東光坊とした寺院があった。右には光明坊。東光坊の並びが玉葉坊。皆槙垣をしてあった。右には光明坊。垣の外には桜の並木があった。光明坊の並びは長勝院。その並びは本興寺の通用門であった。少し上がると右に朱の本門が見え、右の行詰にも寺があった。見付の上がり口に各一本づつおおきな杉があった。草葺きの本道は扉を閉ざしてあった。それは装色のない古い寺で特別保護建造物の札を付けてあった。回廊の縁板の木も欄干の木も同じく古びていた。


 参考  「ふるさとシリーズ 浜松・浜名湖周辺」より
 写真  るるぶ浜松浜名湖 より