浜松の歴史について


1.人類の登場と、浜松のあけぼの
 三ヶ日人や、浜北人は、今から、約2万年前に生活していた人々と考えられています。4000年前の浜松には、蜆塚に人が住み始めました。浜松周辺の旧石器時代の遺跡は、磐田原大地に集中しています。なお、三ヶ日人の頭骨には、鋭い刃物で、削った後があるものがあったために、人食の風習があったのではないかと考える人もいます。 (日本の人口 約2400人 食べ物 鹿・猪・魚・貝 栗・クルミ・どんぐり)


2.国土の統一と、浜松
 弥生時代の中頃には、全国各地に地域ごとに集まった、小さな国が出来ていました。それらの国々は、近畿地方に成立した、大和朝廷によって、一つにまとめられていたようです。浜松に住んでいた人達は、三方原古墳、内野古墳、入野古墳などに住んでいたようです。 (日本の人口 約81300人 食べ物 鰹・鮎・鰯 五穀・海藻・味噌)


3.武家政治の始まりと、浜松
 新しく開墾された土地の納税をめぐって、律令制度の基礎が揺らぎ出すと、有力な貴族や寺社によって土地と人民の私物化が始まり、各地に荘園が広まっていきました。  中性の浜松の歴史は、まだよく分かっていないことが多いのです。平安時代以降浜松市周辺の荘園は、伊勢神宮にかかわる御厨・御園・神戸が多く見られました。浜松周辺の荘園にも、それぞれの経営をまかされた武士やその荘園を守るための武士たちがいました。 微志となった地方の豪族たちは、一族のものや家来たちに武器を持たせ、刀や弓の訓練をさせ、やがて武士団としてのまとまりを見せるようになりました。そして、12世紀の後半、源頼朝による初めての武家政権が生まれました。  そして、戦国時代15世紀ごろは、今川義元にっよって支配されていましたが、織田信長によって、滅ぼされました。 (日本の人口 20万人台 食べ物 鰹・鮎・鰯 五穀)


4.江戸時代の浜松
 信長、秀吉、家康によって、ようやく前項が酔ういつ去れ、1603年(慶長8年)家康は、名実ともに全国への支配権を得て江戸幕府を開きました。浜松に、領主として、赴任した大名の中には、幕府の要職につく者も多かったので、後生浜松城は、出世城と呼ばれるようになりました。  浜松藩では、郡奉行の下には、村毎に、庄屋・組頭・百姓代などの村役人をおいて、検地帳や年貢割付町にモト随手、農民から年貢を納めさせていました。また、藩では様々な定書を出して、日常生活から精神面に至るまで管理しようとしました。こうした領民支配が、村を最終単位に行われたのが、この時代の特徴です。  家康が、浜松へ移ってくる前の浜松の街は、現在の白から、東あるいは東北の方角へ広がっていました。しかし、家康G新たに浜松城の築城を進めると共に、すでに浜松に住んでいた職人や新たに岡崎から連れてきた職人たちに、新しい街作りをすすめさせるにしたがって、浜松の街は、城の南あるいは東南の奉公へ、広がっていったようです。そして、17世紀の始め頃には、浜松浄化の町割が整えられたようです。  浜松周辺では浜松藩以外の大沢家などの旗本領でも、全国の他の藩と同様に、年貢を増やすために新田開発を奨励したり、開発したばかりの新田を保護したりしました。  水野忠邦が、浜松藩の藩主となった頃は、幕府の政治はいきずまっていました。災害なども加わって、農民たちの暮らしも変化していきました。水野家も借金を抱えてくるし偉材性運営をしていましたが、1846年水野家の移封に際して、その借金を踏み倒していったために、大規模な一揆が起こりました。浜松でも、幕末になると、北遠などに広がっていた直轄領でも一揆が起きるようになってきました。 (人口・約35〜40万人台 主な食べ物 鮎・鰹・鰯 五穀・海藻・味噌)


5.近代日本の歩みと浜松
 いち早く近代化を遂げた西欧諸国の圧力に屈した江戸幕府は、鎖国政策を止めて開国しました。その結果、封建体制は急速に崩壊し、約260年間続いた江戸幕府は滅びました。1868年、明治の新政府ができて、天候を中心とする強力な中央集権国家を、目指しました。それ以後の日本は、西洋の国々に追いつくために、新しく産業を興したり、近代的な軍隊を作ったりして、豊かで強い国を目指しました。しかし、日本は、武力を背景に大陸へ活路を求めて進出し、アジアの国々の反発をかい、西洋の国々との間に利害の対立を起こして、15年にわたる長い戦争の時代へと進んでいきました。  浜松でも、最後の城主井上氏の時代になると、遠州灘沖に、外国船が、姿を見せるようになっていました。遠州灘沖を航行している外航船の姿に、武士や領民たちは、不安な日々を送っていたことでしょう。そして、浜松藩は、遠州灘の海岸線に、全部で四カ所の砲台を作り、外航船の来襲に備えることになりました。神主や豪農の師弟たちが中心となって、報国対と呼ばれる組織を作りました。そして、政府軍に加わって、上野の合戦などに参加しました。  明治維新によって、徳川家は将軍の座から降りてすんぷ藩の一大名となりました。その際浜松藩は、すんぷ藩野中に組み込まれました。そして、廃藩置県の後、全国的に細かく分かれていた府や県をまとめていこうとする動きがありましたが、静岡県では、逆に足柄県静岡県浜松県に分かれました。  物価の激しい変動や不景気の時には、農村もその影響を受け、特に、風水害などによって収穫が少ないときには、生活は深厚なものとなっていきました。こうした不況に対する工夫として、農家では、養蚕などの生産を始めました。  不況や自然災害に対し、工夫や苦労を重ねながら農業生産を続けていた農民たちでしたが、どうしても土地をてばさななくてはならない農民たちも増えてきました。また、浜松に大きな工業が誘致されたり、建設されたりするようになった、19世紀の終わりから20世紀の始め頃に賭けては、工業が浜松の主要な産業になりつつあるときでした。そのため、土地を手放した農民たちや生活が苦しく鉈農民たちを中心に、工場で労働者として、働く人達が増えてきました。  遠州織物を扱っている浜松周辺の企業は、製品の室を一定に保ち高い販売力を付けるために、共同で原料を貝、共同利用工場で共同加工・製品検査・報道などの作業を行いました。これが永久社の始まりです。やがて、大正末になると、永久社は、全国初の工業組合として、認められ、遠州輸出綿織物工業組合永久社となりました。  浜松市内の、バス路線の運行は、民間の会社によって始められました。市でも市民の足を確保するために、市営のバス路線を設置しようとする動きがありましたが、すでに浜松循環自動車株式会社があるために、なかなか認可されませんでした。そこで、1936年担って、浜松循環自動車と中田島自動車の両者を改修し、浜松市営乗合自動車の営業を始めなした。交通機関が発達するに連れて、買い物圏が拡大し、浜松の商店は、その中心地として、店を洋風に建て替えたり、デパート化したりしました。  浜松が、市となったときの面積は8.66平方キロメートル、人口36782人でした。しかし、大正に3回、昭和に2階、計五回の合併によって、富塚村、天神町村、曳馬町白脇町、蒲村のD町村を合併しました。そして、1936年には、面積47.3平方キロメートル、人口1789287人になりました。  太平洋戦争が始まると、物資の不足は深刻になり、配給制度がしかれました。市民は、わずかな配給品で、生活していかなければなりませんでした。本土が直接空襲されるようになると、軍需工場を多く持つ浜松も、地方都市の中では、数多く空襲される年となりました。合計27回におよぶ空襲や、艦砲射撃によって、浜松の中心部はほとんど破壊されてしまいました。 (日本の人口 約415000人 食べ物 牛肉・牛乳・鰹・五穀・パン)


6.新しい浜松を目指して
 長い戦争の反省にたって、日本は、民主化を推し進めるため主権が国民委あり、人権が尊重される国であることを新しい憲法の基本理念として、再出発することとなりました。戦争の痛手は、国民生活を苦しめましたが、国民の努力によってようやく立ち直りを見せました。そして、今や日本は経済大国として、国際的な注目や批判を浴びています。また、一方では、自然破壊や公害問題など大きな負の日痔も背負っています。これからの日本・浜松はどんな道を歩むのでしょうか。  1950年代の浜松は、周辺町村の合併などにより地域が広がると共に、市営プールや動物園ができるなど町の様子は大きく変わっていきました。また、1959年には、テレビ放送ゆかりの地浜松に、NHK浜松テレビ局が開局されました。  山荘によって焼けてしまった浜松駅は、最初はバラック建てで、再建されました。そして、浜松の表玄関としてふさわしい駅の再建のために、浜松の戦災復興計画に合わせ、様々な再建計画が立てられました。しかし、どの計画も実現せず、1948年にそれまでのバラックの駅に代わり、中間復興駅と言うことで、木造2階建ての浜松駅が完成しました。1956年には、東海道新幹線が開通し、浜松駅の高架化事業が始められました。さらに、1971年には、西浜松駅が完成し貨物営業を始めました。そして、1979年には、東海道本線の高架化工事も完了し、1982年には、現在の浜松駅北口バスターミナルも完成しました。1990年委は、フォルテがオープンしアクトタワーも完成しました。音楽の町浜松としての、ふさわしい駅前が作られています。


参照・・・図説浜松の歴史